内田樹著『寝ながら学べる構造主義』を読んでいて、自分が構造主義っぽい考えかたをしていたことを発見しました。
「これは本当に当たり前なのかな」と疑問に感じたとき、私は「これは他の地域でもそうだろうか?」「これは違う時代でもそうだろうか?」と考えるんですよね。
そうすると案外、当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなかったことに気づきます。
同じことには言語と思考にもいえて、フランス語を話しはじめてからというもの「この発想って日本語に特有?」「この発想ってフランス語の構造に由来してる?」と考えたりするんですよね。
普段からそういう感じなので、『寝ながら学べる構造主義』を読んだら「それ思ってた!」ということがどんどん出てきて、大変おもしろかったです。
構造主義とは
構造主義の説明について、怠慢ではありますがWikipediaから引用します。
広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。
ものごとがどうしてそうなっているのかを、なるべく根本的なところから考えるってことでしょうか。雑。
構造主義まわりの哲学者たち
この本は構造主義の本当に親切な入門書なので、代表的な人と思想について、掘り下げすぎず簡単にレクチャーしてくれます。
フェルディナンド・ド・ソシュール
「『肩が凝る』のは日本人だけ!?」
というのも、アメリカ人は肩が凝らずに「背中が痛む」らしいのです。
外国語と格闘してる人は特に、言葉と発想の関係についてかなり興味深いところがあると思います。
ミシェル・フーコー
「身体も一個の社会制度である」という箇所の、日本人の伝統的な歩行法がどうして廃止されたのかという話がとくにおもしろい。
私たちの日常の身体の動作さえ、自分の思い通りになっているわけではないんですね。
ロラン・バルト
「コピーライト」あるいは「オーサーシップ」から、「オープンソース」への転換というところ。
いわゆる著作権は、作者がその作品を「ひとりで作り上げた」ので「ひとりで権利を保有する」という前提に立っていますが、バルトは
「それって本当に作者がひとりで作ったわけ?」
と疑問を投げかけます。
その時の社会の状況であるとか、このあいだ誰かに聞いた話とか、昨日読んだ本etcの集合がその人の作品になってるんじゃないの、と。
クロード・レヴィ=ストロース
サルトルを粉砕して(私が)大興奮!
ジャック・ラカン
幼児が鏡に映っている像を「私」として認識するのを「鏡像段階」といいます。
人間はその段階を経て「私」を形成していくわけですが、そこで抱え込む「つけ」の話がぐっときました。
鏡で自分の顔を見る時、写真で自分の顔を見る時の、そこはかとなくしつこい違和感の原因ってひょっとしてこれかも。
考えかたを考える
考えかたについて考えるのって楽しいですよね。このところは世の中でも
「常識を疑おう」
「オープンソース」
なんて言いますけど、構造主義まわりの人たちはそのようなことをずっと前に言ってたんですね。
堀江貴文のベストセラー『多動力』も、ドゥルーズの「ノマド思考」に時代が追いついたんじゃないか?とどっちも読まずに予想してるんですけど。←読んでから言いましょう
というわけで、哲学をかじると、世の中のある最先端への最短アクセスになるのではと思うのでした。