このブログを訪れてくれた人の検索キーワードの中に、「パリジェンヌ なりたい」というのがあります。
たしかにパリジェンヌって、おしゃれできれいで恋愛至上主義でいつまでも魅力的で、っていうイメージがありますよね。
でも、べつにパリジェンヌにならなくてもいい気がするんです。
なろうとしなくてもいい気がするんです。
というか、下手にパリジェンヌの真似をすると、かえって遠ざかる気がするんです。
理由①パリジェンヌの美しさは様々だから
パリジェンヌは持って生まれた外見を生かしているので、個性がバラバラです。
いろいろな人が一緒に住んでいるパリですから、美しさについては日本ほど画一的にならないですよね。
顔立ちや肌・髪の色によって似合う色なんかも変わってきますしおすし。
それに、みんなが一緒に住んでいるということは、ほんとの白人、ほんとの黒人、ほんとのアジア人などがいるということです。
だから、たとえばアジア人が白人みたいなルックスにしようとした場合、実際の白人から見れば興ざめの可能性大です。
「白人でもないうえにアジア人の良さも生かしていない謎の存在」と思われてもいたしかたありますまい。
理由②パリジェンヌは作り込まないから
日々見ていると、たいていのパリジェンヌはナチュラルです。
もちろん服のセンスが良い人も多いんですけど、そんなに気張ってないというか、普段着もかなりカジュアル。
彼女らは下地とファンデーションを駆使して毛穴の見えない肌を作りこんだりしないし、まつげエクステもネイルアートもしてません。
人間は人形じゃないですしね。
ないものを付け足したり欠点をカバーするより、人間らしい自然な美しさを大切にしている気がします。
理由③むしろ外見以外のことが大切だから
見た目の話ばかりしてきたものの、パリジェンヌは造作が美しい人ばかりではないし、モデル体型の人ばかりでもありません。
でもいいんです。彼女たちの武器は見た目だけじゃないので大丈夫、というかたぶんこっちのほうが大事なんですが、それは「知性」と「教養」です。
作品は氷山の水面に浮かんだ一部分にすぎない。その下に沈んだもの、これが読者をうつのである。
——『風に訊け』開高健
という言葉が開高健の本にありますが、似たことのような気がします。
外見が「氷山の水面に浮かんだ一部分」だとしたら、内面の魅力は「その下に沈んだもの」であり、沈んだ部分の豊かさが大事です。
そこが充実していれば、たとえルックスが完璧でなくたって、まわりの人をうつんじゃないでしょうか。なんとなく素敵な雰囲気も出てくるのかもしれない。
誰かのコピーになってはいけない
パリジェンヌは自分の個性を生かして自然体でいるわけですが、それは「自分以外の誰かになろうとする」のをやめることでもあります。
ということは、「パリジェンヌになろうとする」とパリジェンヌから遠ざかる、ような気がします。
基本的なセンスや考え方は彼女たちから学ぶこともできますが、そのあとは「自分は何が好きで自分には何が似合うのか」を、自分の頭で考えないといけないと思うのです。
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